今日は10月7日(土)です。今日から「中田英寿」の名言です。

今日は10月7日(土)です。今日から「中田英寿」の名言です。

まずは「中田英寿」について

○兄の影響でサッカーを始める

中田英寿さんは1977年に山梨県の甲府市で生まれます。2歳年上のお兄さんがサッカーをやっており、その影響を受け中田さんがサッカーを始めたのは小学3年生の時です。

中田さんは小さい頃はそこまで飛び抜けた才能の持ち主ではなかったと周囲の人は語っていたといいますが、中学3年生の時に初めてU-15の日本代表に選出されると、その後も年代別の代表に呼ばれるなど、どんどんと頭角を表していきます。

高校は山梨のサッカー名門校である山梨県立韮崎高等学校に進学し、2年生の時には高校サッカーの最上位大会である全国高等学校サッカー選手権に出場します(韮崎高校は2回戦敗退)。高校生の頃からセリエAへの移籍を見据えイタリア語の勉強をしていたといいます。

○19歳でオリンピック代表に選出

高校卒業後はJリーグの道へ進みます。当時12チームあったJリーグの中で中田さんにオファーをかけたのはなんと11チーム。2、3チームの練習に実際に参加し、最数的には中田さんはベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)を選択しました。

新人ながらリーグ戦8得点を決めるなど、早々にチームの中心となった中田さんは19歳でアトランタオリンピックの日本代表にも選出されます。オリンピック初戦で日本はブラジル代表に勝利、「マイアミの奇跡」として現在でも称えられています。

オリンピックの翌年にはフル代表にも選出され、すぐにレギュラーに定着。初のワールドカップ出場を目指すチームを20歳の若さで牽引し、日本は初めてのワールドカップ出場を決めました。

○21歳でセリエAのペルージャに移籍

1998年のフランスワールドカップでは全試合フル出場を果たすも日本は3戦全敗。しかしこのワールドカップをきっかけに中田さんは海外のクラブにも注目され、多くのチームが彼の獲得に動いたとされています。

そして21歳の時にセリエAのペルージャへ移籍。開幕戦で強豪のユヴェントスを相手に華麗なオーバーヘッドを含む2得点と、鮮烈なデビューを果たします。このシーズンでは年間10得点をマークする活躍をしました。

1999年シーズンでは名門のASローマへ移籍します。そして翌年にASローマはリーグ戦で優勝し、中田さんは日本人で初めてセリエAの優勝メンバーとなりました。

○29歳で現役を引退

2001年には当時のアジア人選手最高額となる33億円でパルマに移籍します。2002年、中田さんは日韓ワールドカップでも変わらず中心選手として活躍し、初のグループリーグ突破へ大きく貢献しました。

その後ボローニャ、フィオレンティーナを渡り歩き、2005年にはイングランドのボルトンへ移籍します。そして2006年に開催されたドイツワールドカップ、グループリーグ敗退が決定すると、中田さんは29歳の若さで現役引退を発表しました。

その後は世界各地を旅してまわり、チャリティーマッチを主催したり、現在では日本酒の魅力を世界に発信するAPAN CRAFT SAKE COMPANYの代表を務めるなど実業家としても活躍しています。

◎旅とは人生であり、人生とは旅である