今日は6月27日(火)です。今日から「千利休」の名言です。

今日は6月27日(火)です。今日から「千利休」の名言です。

まずは「千利休」について

○商人の息子、17歳から茶道の道へ

千利休は大永2年、1522年に和泉国の堺(現在の大阪府)という町に生まれます。父親の田中与兵衛は地元でも有名な商人でした。

世に知られている「千利休」という名前は本名ではなく(本名:田中与四郎)その後に第106代天皇、正親町天皇(おおぎまち)に与えられた名前です。

17歳から茶道を習い始めた利休は、北向道陳や武野紹鴎に弟子入りし茶道を学んでいきます。特に武野紹鴎は当時のきらびやかな茶具を用いず、茶道の簡素化を目指しました。利休はその簡素簡略の”わび”教えをさらに作法や様式にまで広げ、のちに発展させていきます。

○織田信長の側近の茶人

1544年には22歳で初めての茶会を開きます。また父からの影響もあってか商人としても成功を収めていまいた。

そして1569年に織田信長が勢力を拡大していく過程で商業や貿易が盛んな堺の町に注目し、ここを直轄地としました。

信長は商人としても力のある今井宗久、津田宗及、利休を含めた3人の茶人を召し抱え、特に利休は茶頭として重宝していたと言われています。

○豊臣秀吉にも重用される

その後信長が京都で開いた茶会に参加するなど茶人として活躍するかたわら、1575年に起きた一向一揆により討伐にくりだした信長のために、鉄砲玉を調達するなど商人としても力量を発揮します。

しかし1582年に本能寺の変により信長が明智光秀に討たれると、その後天下人となる豊臣秀吉に仕えることになりました。

秀吉は信長以上に茶の湯に関心が深かったため、利休は秀吉に頼まれ茶室を作るなど、信長に増して重宝されるようになります。

○秀吉の怒りをかい、切腹

また1585年に正親町天皇から「利休」の名前をもらうと、その名は全国に広まるようになります。また秀吉が天下平定に向かう中で、利休も茶人として影響力を持つようになりました。

茶の湯を愛した秀吉でしたが、その種類は利休とは真逆のものでした。秀吉は愛用していた「黄金の茶室」に代表されるように豪華絢爛なものを良しとし、利休は「わびさび」からくる簡素なものを美としました。

このようなことも原因の一つとして両者は次第に相容れなくなり、1591年、秀吉の命令により利休は切腹を言い渡され、70歳の人生を終えました。

◎心の師とはなれ、心を師とせざれ