今日は12月28日(木)です。今日から「森鷗外」の名言です。
まずは「森鴎外」について
○代々藩医の家系に生まれる
森鴎外は1862年に石見国(現在の島根県)で生まれます。家は代々、津和野藩の藩医の家系でした。父親も家業の医師を継ぎ、鴎外も医者になるために幼い頃から教育を受けます。
4歳から論語や孟子などの儒学を学び、その後は藩の学校でオランダ語を学びました。しかし鴎外が6歳の時に明治維新が起こり、世の中が大きく変わります。
廃藩置県により、藩がなくなったことで森家は東京に移住を決めます。東京でも引き続き学問を続けた鴎外は、医学校に入るために塾でドイツ語を学びます。
○15歳で東京医学校に入学
そして12歳の時に東京医学校の予科に入学します。この時入学のために実年齢を2歳多く偽って試験を受けたといいます。鴎外は順調に授業を消化し、そのまま15歳の時に東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学しました。
在学中は授業のかたわら、漢文などにも興味を持ち自身で和歌も作るなど、文学の興味と才覚をあらわしていました。その後医学校を19歳で卒業すると、東京陸軍病院で軍医として働き始めます。
語学が堪能だった鴎外は、22歳の時に衛生学の研究のためにドイツ留学を命じられます。ベルリンではロベルト・コッホの研究所にも入ります。ここには同じく日本から留学し、後に「近代日本医学の父」と言われるようにる北里柴三郎も所属していました。
代表作となる「舞姫」や「うたかたの記」を発表
ドイツでの滞在は4年間にわたり、鴎外は医学だけでなく、芸術など幅広いヨーロッパの文化に触れます。またこのドイツでの出会いが、後に書かれる「舞姫」の題材となるなど、文学的な面でもに大きな影響を受けた期間でした。
26歳で日本に帰国した鴎外はその2年後の1889年に「小説論」という文学作品を読売新聞の付録で発表します。文学に力を入れるようになった鴎外は翌年、代表作となる「舞姫」や「うたかたの記」などを発表しました。
その後、32歳の時に日清戦争が勃発すると、軍医部長として韓国や中国などの戦地に赴きます。その後の日露戦争などでも軍医として尽力し、45歳の時には、軍医として最高の位になる軍医総監にも就任しました。
○晩年は歴史小説に勤しむ
鴎外は日露戦争後から再び執筆活動にも注力するようになります。時代とともに作風も変化し、晩年は「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」などの歴史小説を多く残しました。
軍医としては54歳で退官し、その後は帝室博物館(現在の東京国立博物館)で勤務し、帝国美術院の初代院長に就任するなど、文学の発展に尽力します。
そんな作家として軍医として、大いに活躍した森鴎外。1922年、最期は肺結核により60歳でその生涯を終えることとなりました。
◎足ることを知ることこそが幸福である