今日は12月22日(金)です。今日から「宮本武蔵」の名言です。
まずは「宮本武蔵」について
○13歳の時に初めての決闘
宮本武蔵の生涯は様々な諸説があり、確かな情報がないのが現状です。生まれた年も場所もいくつかの説があり、一説によると岡山県の美作市に1584年に生まれたとさせています。
また父親は戦国時代に活躍した剣豪、新免無二とされています。父も二刀を扱う剣豪であったため、二刀流で有名な武蔵はこの父の影響を大きく受けていたと考えられています。
父により幼少期から剣術の修行を受けていた武蔵にとって初めての決闘は13歳の時でした。この決闘から武蔵の生涯無敗伝説は始まりました。
○名門吉岡一門に一人で打ち勝つ
17歳の時には徳川家康と豊臣勢力との間で起きた、天下分け目の戦「関ヶ原の戦い」にも参加したとされています。
そして21歳の時に京都の剣術名門家である吉岡一門に単身決闘を挑みます。最初に当主の吉岡清十郎と戦い勝利した武蔵は、その弟の伝七郎、清十郎の子供である又七郎にも続けざまに勝利しました。
当主を失った門下生たちは数十人にも及び武蔵を討とうとしますが、最終的にこの人数にも一人で戦い抜き、吉岡一門を断絶するほどの強さをみせつけました。
○佐々木小次郎と巌流島での決闘
そして29歳になった時、宮本武蔵にとって最大の決闘とされている巌流、佐々木小次郎と下関にある船島という小島で決闘をおこないます。
二刀流の武蔵と長刀使いの小次郎の一戦は武蔵の木刀による一撃で幕を閉じ、見事武蔵は勝利をおさめました。
その後に起こった大坂の陣では徳川軍に加勢し、そこでもその強さを遺憾なく発揮、多くの功績を残したとされています。またその後はいくつかの藩主にも召し抱えられ、度々戦に繰り出したとされています。
○兵法、五輪書の執筆
晩年は熊本に移住し、58歳の時には自らが体得した剣術を記した「兵法三十五箇条」を書き上げ、その2年後には兵法の極意を説いた「五輪書」を執筆し始めます。
五輪書の執筆には2年の時を用し、地・水・火・風・空の5巻からなるこの書物には武蔵の剣術理論が詰め込まれており、現代の武道にも大きな影響を与えているとされています。
そして五輪書を執筆し終わった矢先、病に倒れた武蔵は62歳でその生涯を終えました。
◎何ごとも勝つということは、道理がなくて勝つことはできない。