今日は12月19日(火)です。今日から「宮崎駿」の名言です。

今日は12月19日(火)です。今日から「宮崎駿」の名言です。

まずは「宮崎駿」について

○世界大戦の最中に生まれる

宮崎駿さんは1941年に東京に生まれます。祖父は特許を持つ発明家であり、町工場を経営していました。また父親はその工場を引き継ぎ、航空機製作所を設立するなど会社を大きくします。そのため宮崎さんはとても裕福な家庭環境でした。

しかし宮崎さんが生まれた時は第二次世界大戦の真っ只中でありました。空襲なども経験し、また「20歳まで生きられないかもしれない」と医者に言われるほど体が弱かった宮崎さんは激動の幼少期を過ごします。

小さい頃から絵を書いたり本を読んだりすることが好きだった宮崎さん。特に漫画に熱中し、手塚治虫さんなどの漫画作品をよく読んでいたといいます。

○長編アニメ映画に魅了される

中学生になると美術の先生から油絵を学びます。高校では手塚さんの影響を受け、漫画家になろうと自分でも漫画を描き始めます。

そして高校卒業間際に観た日本で初めての長編アニメーション映画「白蛇伝」に衝撃を受け、そこからアニメーションにも心惹かれるようになります。

大学は美大に行くことを願いますが、父親の反対を受け学習院大学に進学。それでも独学でデッサンなどを学び、漫画も描き続け、出版社に持ち込みもしていました。

○38歳で映画監督デビュー

大学卒業後は「白蛇伝」を制作していた東映動画に入社します。漫画家への道も捨て切れないでいた宮崎さんですが、ソ連が制作した「雪の女王」という長編アニメに感銘を受け、アニメーションの世界で生きていこうと決めます。

この頃、のちに一緒にスタジオジブリを立ち上げる高畑勲さんに出会います。宮崎さんの画力は社内でもズバ抜けており、早くから頭角を現します。

その後、「アルプスの少女ハイジ」や「未来少年コナン」などの話題作を制作し、38歳の時に初の映画監督作品である「ルパン三世 カリオストロの城」が公開されました。

今でこそルパンシリーズの中で人気の高い作品ですが、公開された時は客席はまばらで興行的には失敗とされるものでした。これをきっかけに、作品を提案しても企画は通らず映画に携われない期間が続きます。

○スタジオジブリを設立し、数々の名作を生み出す

そんな時に鈴木敏夫さん(のちにスタジオジブリのプロデューサー)から「風の谷のナウシカ」の映画化を勧められ、まずは雑誌で漫画を連載し、それを原作とした映画が1984年に公開されます。

その翌年、鈴木敏夫さんがいた徳間書店の出資を受けて「スタジオジブリ」を設立すると、「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「もののけ姫」などの作品を発表し、そして2001年に公開された「千と千尋の神隠し」は日本の映画史上トップとなる興行収入308億円の大ヒットを記録します。

宮崎さんは2013年に公開された「風立ちぬ」を最後に長編映画引退を発表しますが、その後再び制作の現場に戻ることを決め、現在も次回作に向けた活動を続けています。

◎森を壊し自然を壊す人間たちを悪人で、レベルが低くて野蛮な人たちだと言うなら、人間の問題というのはずいぶん解決しやすいんです。そうじゃなくて人間の最も善なる部分を押し詰めようとした人間たちが、自然を破壊するところに人間の不幸があるんです。