今日は11月23日(木)です。今日から「野村克也」の名言です。

今日は11月23日(木)です。今日から「野村克也」の名言です。

まずは「野村克也」について

○幼少期の貧しい生活

野村克也さんは1935年に京都に生まれます。実家は食料品店を営んでいましたが、野村さんが3歳の時に父親が亡くなり、店を手放すことになってしまいます。

母親は看護師をしていましたが、2度の癌を患うなど病弱だったため、野村さんは兄と一緒に小学生の時から新聞配達などのアルバイトをして家計を助けます。

しかし生活はひどく困窮し、野村さんは「お金持ちになって母親を楽にさせたい」という思いから次第に野球選手を志すようになりました。

○高校では無名選手

そして中学校2年生の時に野球部に所属します。チームではキャッチャー・4番として活躍しますが「卒業後は進学せずに働いて欲しい」と母親から懇願されます。

そんな時、野村さんのお兄さんが「自分が大学に行かない代わりに克也を高校に行かせてほしい」と母親を説得し、野村さんはなんとか高校に進学することができました。

しかし入学した京都府立峰山高等学校の野球部は廃部も検討されるような弱小校でした。高校3年間の試合もほとんど勝てないまま、野村さんも無名選手として過ごします。

○南海ホークスのテスト生として入団

プロ野球選手を諦めきれない野村さんは18歳の時に、新聞に掲載されていた南海ホークス(現ソフトバンク)の選手募集広告に応募し、テスト生ながらプロ野球選手としての第一歩を踏み出します。

しかし1年目は出場機会も少なく、成績も残せなかったこともあり早々に戦力外通告を突きつけられます。しかし、その後チームのキャッチャーに怪我が相次ぎ、人数が足りなくなったことでなんとかチームに残ることができました。

それでも担当マネージャーから「プロでは活躍できないと」烙印を押され、また肩が弱いとキャッチャーのポジションも外された野村さんですが、筋力トレーニングや素振りなど地道な努力を重ね、2軍で打率2位の成績を残すまでになります。

○戦後初の三冠王を獲得

プロ3年目には1軍で正捕手レギュラーとして定着した野村さんは、22歳の時に初めて本塁打王のタイトルを獲得します。そこからは毎年のようにタイトルを獲得し、1965年30歳の時には戦後初の三冠王にも輝きました。

選手兼監督としても活躍した野村さんは1980年45歳で現役引退を決断します。引退後はヤクルトスワローズの監督に就任し、ID野球を武器にチームを日本一に導きました。

その後も阪神タイガースや楽天イーグルスなどの監督を歴任し、監督としてもその存在感を強く残しました。そんな日本の野球界を牽引してきた野村克也さんは2020年2月に84歳でその生涯を終えました。

◎「どうするか」を考えない人に、「どうなるか」は見えない。