今日は11月16日(木)です。今日から「野口英世」の名言です。

今日は11月16日(木)です。今日から「野口英世」の名言です。

まずは「野口英世」について

○1歳の時に左手に大火傷

野口英世は1876年、明治の初期に福島県で生まれます。生まれた時に付けられた名前は清作でした。「英世」という名前は22歳の時に自身で改名したものです。実家は農業を営んでいましたが、生活はとても苦しかったようです。

英世は1歳の時に誤って囲炉裏に落ちてしまします。その時に障害が残るくらいの大やけどを左手に負い、家業の農作業の手伝いも難しくなってしまいました。

そのため農家ではなく学問で身を立てるようにと、教科書も買えないくらい貧しさの中、母は英世を小学校に入学させます。そんな環境の中で英世は懸命に勉学に励み、学校では常にトップの優秀な生徒でした。

○左手の手術から医学の素晴らしさに感動

英世は小学校卒業間際に試験官として学校に来ていた小林先生と出会います。一目で英世の優秀さを感じとったた小林先生は自分の財産を投じてまで英世を援助し、高等科への進学を勧めました。

高等科に進んだ英世は変わらず勉強に熱心で、常に首席の成績でした。また同級生や教師の援助により左手の手術を受けられることにもなりました。手術を受けた時に医学の素晴らしさに感動し、将来は医者になろうと決意したと言います。

高等科を卒業した英世は自分を手術してくれた先生の元で住み込みで働くようになり、3年間にわたり医学の基礎を学びました。そして1896年、19歳の時に医術開業試験を受けるために上京し、わずか一年足らずで難関の試験に合格します。

○研究者としてアメリカへ渡る

試験に合格するも医者ではなく、学者として研究する道を選んだ英世。細菌学への関心が強かったこともあり、1898年に伝染病研究所へ入所します。また海外で研究をしたいと翌年には留学を決意し、アメリカに渡ります。

この留学費用やこれまでの勉学などの資金は、英世をおもうまわりの援助により支えられており、そんな人の出会いによって英世は助けられ、研究を続けることができました。

アメリカで最初に取り組んだのが蛇毒の研究でした。この研究論文を発表するとアメリカの医学界でもその名が知られるくらいの賛辞を受けます。

1904年にはロックフェラー医学研究所に入所し、梅毒スピロヘータの研究などで大きな成果を挙げ、ノーベル医学賞候補にもその名前があがりました。

○黄熱病の研究のために中南米、アフリカへ

そして1918年、41歳の時に黄熱病が大流行していた中南米にロックフェラー研究所の派遣員として参加、エクアドルに向かいます。自身が開発した野口ワクチンで南米の黄熱病が落ち着きを見せるなど、一定の成果をあげます。

しかし野口ワクチンの効果に疑問を唱える声も多くあり、またアフリカでも黄熱病による死者が出たことで、研究を深めるために1927年にアフリカ行きを決断します。

現地での懸命な研究に取り組みますが、翌年に自身も黄熱病にかかってしまいます。そしてその後も体調は回復せず同年の5月に51歳で息を引き取りました。

◎教えに来たのではありません。習いに来たのです。