今日は10月23日(月)です。今日から「夏目漱石」の名言です。

今日は10月23日(月)です。今日から「夏目漱石」の名言です。

まずは「夏目漱石」の名言です。

○名前は金之助、複雑な幼少期を過ごす

夏目漱石は1867年に江戸にある裕福な名主の末っ子として誕生します。生まれた時に付けられた名前は「金之助」でした。そして漱石は生後4ヶ月で古道具屋に里子に出されることになります。

しかし里子にいくも、夜遅くまで店先で寝ている漱石を見つけた姉はそれを不憫に思い、実家へ連れて帰ります。それでも漱石はまたすぐに別の家に養子に出されることになりました。

幼少期をそこで過ごしますが、養子先の夫婦が離婚することになったため、9歳で再び実家に戻ることとなりました。様々な家庭事情に振り回されるなど、複雑な幼少期を経験しました。

○正岡子規のペンネーム「漱石」を譲り受ける

その複雑な状況は学校に通うようになっても続き、7歳で小学校に入学するもいくつも転校を繰り返すようになります。そんな中でも17歳の時に目標としていた大学予備門に見事合格します。

学校では常に首席の成績をおさめるなど、優秀だった漱石。特に英語が得意だったといいます。また22歳の時には同窓生であった正岡子規と出会い、大きな影響を受けます。

この頃に子規のペンネームの一つであった「漱石」の名を譲り受け、夏目漱石と名乗るようになりました。子規とは学生生活が終わった後も交流を深めていきました。

○英語の教師の後、イギリス留学

漱石は23歳で帝国大学の英文科に入学。大学でも優秀だった彼は教授から頼まれ「方丈記」の英訳をするなど、高い能力を発揮します。

26歳で大学を卒業すると、高等師範学校の英語教師として働き始めます。その後も愛媛や熊本の学校でも英語を教え、その仕事のかたわら俳人としても活躍するようになりました。

そして33歳の時に文部省から英語教育法研究の命を受け、イギリスに留学します。しかし早々に体調を崩すと、そのまま衰弱状態が続き、2年ほどで急遽帰国することとなりました。

○知人の勧めで小説「吾輩は猫である」を執筆

帰国後は東京帝国大学などで講師として働きますが、生徒の自殺などをきっかけに精神を病むようになります。そんな中、気分転換になればと知人に小説を書くことを勧められ、初めて書き上げたのがあの有名な「吾輩は猫である」で、漱石が38歳の時でした。

これが周囲に好評価を得ます。作家として生きていこうと「倫敦塔」や「坊つちやん」などの作品を続けて発表した漱石は、一気に人気作家となっていきます。

40歳の時には本格的に作家一本で生きていこうと朝日新聞社に入社し、職業作家となります。しかし病弱気味だったこともあり体調を崩しながらの執筆活動でした。

危篤状態になることもありながらも、なんとか回復し話題作を発表し続けた漱石ですが、49歳の時、「明暗」の執筆中に持病の胃潰瘍で倒れ、そのまま息を引き取ることとなりました。

◎人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。