今日は9月6日(水)です。今日から「手塚治虫」の名言です。

今日は9月6日(水)です。今日から「手塚治虫」の名言です。

まずは「手塚治虫」について

○幼少期から漫画が身近にあった

手塚治虫は1928年に大阪で生まれます。父親は写真家の仕事をしていました。そして治虫が5歳の時に家族で兵庫に移住します。新しいものが好きだった父親だったため、当時には珍しく治虫の家には漫画があり、幼少期から漫画が身近にある環境でした。

また近所にあった宝塚の公演や映画にも両親によく連れられ通っていました。治虫の想像性は少年時代からそれらの芸術が周囲にあったことも大きな要因だったようです。

学校に通うようになると、昔から漫画に親しんでいたこともあり、自分でも見様見真似で漫画を描くようになります。そして小学3年性の時に初めての漫画を描きあげました。

○小学生で長編漫画を描く

5年生になった治虫は長編の漫画も描くようになり、教師も感心するほどの出来栄えだったといいます。また友人の影響で昆虫が好きになり本名の「治」に虫を加えたペンネームをこの頃から使うようになりました。

その後中学校に進学しますが、その当時の日本は第二次世界大戦の最中にあり、学校も訓練場のような形になっていました。また治虫は大阪大空襲に見舞われ、戦火の中生き延びる体験をしました。

この時の経験などが深く影響し、治虫は医者になる道を選び、その後大阪帝国大学(現在の大阪大学)の医学部に入学します。

○18歳で描いた新宝島がベストセラーに

戦争中も漫画を描き続けていた治虫は、1945年に終戦をむかえると、描き溜めた中にあった一つの長編作品を毎日新聞に送ります。これをきっかけに、子ども向け新聞の4コマ漫画「マアチャンの日記帳」を連載します。

この漫画が人気になったこともあり、京都新聞でも4コマ漫画を連載するなど順調な漫画家デビューとなりました。そして翌年の1946年、18歳の時に200ページの長編漫画「新宝島」を描きあげます。

新宝島が出版されると、たちまちベストセラーとなります。この作品に影響を受けて漫画家を志した藤子・F・不二雄など、のちに続く漫画家のバイブルのような漫画となりました。

○死の間際までペンを握る

この大ヒットから治虫は次々と作品を発表していきます。漫画と並行して医学部の勉強もしていましが、連載活動が忙しくなるにつれ次第に漫画に専念するようになります。

しかし学校を休みながらも医学部を卒業した治虫は、24歳で医師免許を取得しました。のちに治虫は「本業は医者で、副業は漫画家」と語っているくらい医者に対する強い思い入れを持っていました。

その後も「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「火の鳥」「ブラック・ジャック」などなど数々の名作を世に残し、晩年まで制作活動をしていた治虫は病気になり入院してもなお、病院のベッドで漫画を連載を続けました。

最後は昏睡状態になりながらもペンを握っていたと言われているくらい漫画を愛した手塚治虫は、1989年60歳でその生涯を終えることとなりました。

◎人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。