今日は8月28日(月)です。今日から「津田梅子」の名言です。

今日は8月28日(月)です。今日から「津田梅子」の名言です。

まずは「津田梅子」について

○江戸時代の終わりに生まれる

津田梅子は1864年、江戸時代の末期に東京で生まれます。父親は幕臣として得意の英語やオランダ語を生かし、通訳などの仕事をしていまいした。

しかし梅子が生まれて間もなくして幕府が崩壊し、父は職を失います。そしてその後は築地のホテルの仕事に就くことになりました。

1871年、父親は政府により北海道開拓使に任命されます。その時、開拓使の次官を務めていた黒田清隆は女子の教育に関心を持っていた人物で、女学生をアメリカ留学させることを計画します。

○6歳でアメリカへ留学

父親はその計画を知ると、わずか6歳であった梅子を応募させ、見事合格すると、梅子を合わせて5人の留学生が決まります。こうして梅子は日本で初めての女子留学生となり、最年少でアメリカに渡ることとなります。

岩倉使節団の一員としてサンフランシスコに到着した梅子はその後ワシントンに渡り、画家であったチャールズ・ラマン夫妻の家に預けられることとなります。

そこで10年以上の期間を過ごした梅子は、英語やピアノを覚え、14歳の時には私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートに入学しラテン語やフランス語、また自然科学や心理学など幅広い学問を学びます。

○25歳で再びアメリカに渡る

そして1881年、留学期間が10年と決められていたため、開拓使から帰国の命令が届き、梅子は日本に帰国します。幼少期から留学生活をしていたため日本語はほとんど覚えておらず、家族とも通訳を介してしか会話ができないようになっていました。

その後、同じ岩倉使節団として船に同乗していた伊藤博文と再会し、設立されたばかりの華族女学校の英語教師の仕事を推薦されます。梅子は3年ほどこの学校に勤めた後、再びアメリカ留学の道を選びます。

25歳で再度アメリカの地を訪れた梅子はブリンマー大学で生物学を専攻し、在学中に書いた論文はイギリスの学術雑誌にも発表されました。また自分と同じように留学する日本の女学生のために日本婦人米国奨学金制度も設立します。

アメリカに残り研究をすることも薦められた梅子ですが、28歳で日本に帰国すると再び教師として働き始めます。

○女子英学塾を創設し女性教育に尽力

そして34歳の時にアメリカで行われた万国婦人連合大会に参加したことで、女子教育の発展に貢献したいと強く思うようになりました。この時にヘレン・ケラーやナイチンゲールとも面会します。

そして1900年、36歳の時に現在の津田塾大学の前身となる女子英学塾を開校します。それまで行儀作法の延長でしかなかった女子教育を変えようと、梅子は独自の教育方針を掲げ、進歩的な授業を大切にしました。

晩年までこの学校の女子教育の発展と繁栄活動に注力した梅子は1929年に64歳でその生涯を終えました。

◎何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。