今日は8月12日(土)です。今日から「田中一光」の名言です。

今日は8月12日(土)です。今日から「田中一光」の名言です。

まずは「田中一光」について

○映画にハマった小学校時代

田中一光は1930年に奈良で生まれます。家は祖父の代から続くカマボコの製造業を営んでいました。両親は仕事に忙しく、一光は自由奔放に育てられたといいます。

小学校の時から映画が大好きだった一光は学校の近くにあった映画館に通いつめます。また似顔絵を描いて遊んだり、植物に興味をもち園芸を楽しむなど、様々なことに好奇心を持っていた子どもでした。

中学生時代は第二次世界大戦の渦中にあり、勉強よりも軍備を作るための機械工作をする学徒動員の毎日でした。一光が15歳の時の1945年に戦争は終わりました。

○担任のすすめで美術学校に入学

家業のこともあり中学を卒業したら学業は終わりだと思いっていた一光ですが、担任であった絵画の先生から美術学校の進学をすすめられ京都市立美術専門学校の図案化に入学します。

デザインという言葉も確立されていない時代に商業美術である広告やポスターなどに触れます。また学校の演劇部に所属し、劇団活動にも熱中しました。

20歳で学校を卒業すると大阪の鐘紡に就職します。ポスターをつくりたかった一光ですが配属されたのはテキスタイルの部署でした。それでも鐘紡の宣伝部は関西でも有数のクリエイティブ組織で、一光はそこで多くの刺激を受けます。

○大阪から東京へ

その後会社をクビになる挫折を味わいますが、鐘紡の人からの紹介で産経新聞に入社し、公文書を作る仕事をするかたわら、自主的なポスター制作に没頭します。

この取り組みが社長の目に留まると、一光は産経新聞が催すイベントのポスターなどを担当するようになっていきました。その後日宣美の会員になるなど、デザイナーとしての評価も得ていきます。

そして1957年に東京の広告デザイン会社であるライトパブリシティに入社しました。そこで多くの広告デザインを担当した一光は、1960年には日本のグラフィックデザインの第一人者でる亀倉雄策主導の日本デザインセンターの立ち上げに参加することとなります。

○無印良品を生み出す

その3年後にはデザインセンターから独立し、自らの事務所を持った一光。西武などの大企業の商業デザインや大阪万博の幅広いクリエイティブに携わります。また数々の広告・デザイン賞を受賞するなど活躍を広げていきます。

そして1980年にはコピーライターである小池一子と共に無印良品を考案し、消費社会へのアンチテーゼとして新たな価値提案をデザインとコンセプトを通して世に提示しました。

デザイン界だけでなく日本の文化にも大きな影響を与えた田中一光は2002年、71歳の時に急性心不全でその生涯を静かに終えることとなります。

◎デザインには形や色ばかりではなく、そこに社会と連動しながらおのずとにじみ出てくるものがある。