今日は7月20日(木)です。今日から「高杉晋作」の名言です。

今日は7月20日(木)です。今日から「高杉晋作」の名言です。

まずは「高杉晋作」について

○上級武士の家系に生まれる

高杉晋作は1839年に長州藩(現在の山口県)に生まれます。父親は長州藩の武士で、高杉家は戦国時代から有名な毛利家に仕えてきた名門でした。

上級武士の家系であった晋作は幼少期から武士としての在り方を教育されます。生まれつきあまり体が丈夫ではなかった晋作ですが、負けず嫌いの性格だったため、人一倍剣術に励みます。

学問では8歳で寺子屋に通い、14歳の時には長州藩の学校である明倫館に入学します。そして19歳の時には吉田松陰が開いた塾、「松下村塾」に入ります。

○吉田松陰との出会いと、死

松下村塾は農民から武士まで身分に関係なく学ぶことができたため、様々な環境から優秀な生徒が集まりました。そんな塾内でも晋作は久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一らと共に四天王と呼ばれるなど、頭角を現していきます。

そして1年後には江戸に遊学し、大橋塾などで勉学に励みます。しかしその後すぐに倒幕に向けた活動をしていた師・吉田松陰が安政の大獄によってとらえられ、江戸の牢屋に幽閉されることになります。

江戸にいた晋作は松陰の世話、また手紙でやりとりしながら、松陰の志に触れ、自分の生きる道を模索します。長州藩の命令により故郷に帰ることになった晋作。その10日後に吉田松陰は死刑を宣告され、斬首刑に処されてしまいます。

○尊王攘夷を目指し活動を始める

師松陰の突然の死に打ちひしがれた晋作ですが、志半ばで倒れた松陰の思いを胸に生きていくことを決断します。

そしてまずは松陰が生前、果たせなかった海外視察を行います。24歳の時、幕府の使節員として上海へ渡り、アヘン戦争の敗北によってイギリスやフランスの植民地になろうとしていた清の実情を目の当たりにします。

この視察により外国の力の強さ、不利な条件でアメリカと条約を結んだことにより、いずれ清と同じく日本もアメリカの植民地になるのではと危機感を抱き、尊王攘夷の動きを強めていきます。

○倒幕を目の前にした無念の死

その後、武士だけでなく、農民や商人など身分を問わず隊員になることができる奇兵隊を発足。また一時期イギリスやアメリカなどの連合軍と長州藩が戦った際には、悠然とした態度で和議交渉を成功させるなど、活躍します。

幕府との争いも激化する中、坂本龍馬らの働きにより1866年に薩長同盟が結ばれると、晋作は海軍総督として長州に攻め込んできた大多数の幕府軍に奇襲を仕掛け、これを退けます。

次第に幕府の力が弱まるに連れ、時代は一気に倒幕へと向かって行きます。しかし念願の倒幕を目の前にして晋作は肺結核を患ってしまいます。

そしてその結果、29歳の若さでこの世を去ることとなりました。その後すぐに大政奉還が行われ江戸時代が終わり、明治という新しい時代へと進みます。

◎面白きこともなき世を面白く