今日は6月19日(月)です。今日から「杉原千畝」の名言です。

今日は6月19日(月)です。午前6時半より月次祭を執行、国家安泰氏子平安を祈念申し上げました。

 

今日から「杉原千畝」の名言です。

 

まずは「杉原千畝」について

 

〇父親の反対を押し切り英語教師を目指す

杉原千畝は1900年に岐阜県で生まれます。父親は税務署で仕事をしていました。そのため転勤が多く、千畝の小学校時代は転校続きでした。

それでも学校の成績はオール5で、とても優秀な子どもだったといいます。そんな千畝を父親は医者にしたいと望み、仕事で赴任中の韓国の医学専門学校に入学させようと試みます。

しかし、英語の教師になりたかった千畝は父親の意に反し、医学専門学校の受験会場まで行くも入試を受けませんでした。父親から激怒された千畝ですが、自分の意思を曲げることなく、その後早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学します。

〇19歳で外交官留学生となる

父親に逆らったため、仕送りのない貧乏生活を送ることとなりますが、ある日、公費で勉強ができる外交官留学試験の案内を図書館で見つけます。そして猛勉強の末、見事合格を果たし留学生となりました。

そして19歳になった千畝は、中国のハルビンに派遣されロシア語を学びます。ここでも暇を惜しんでは勉強を続け、4ヶ月ほどで日常会話に困らない程度までロシア語は上達していました。

そんなロシア語の能力をかわれ、24歳の時には外務省書記生としてハルビンの日本領事館で働きます。1932年に満洲国の建国が宣言されると、千畝は満洲外交部に派遣されます。ここで外交官として大きな成果を残しますが、外交部の体質に嫌気がさし3年で辞職しました。

〇37歳でヨーロッパへ赴任

その後日本の外務省に戻り、37歳の時にフインランドの日本大使館へ赴任することとなります。そして、その2年後にはリトアニアに渡り日本領事館の領事代理の職を務めます。

千畝がリトアニアに赴任した同じ年、ドイツがポーランドを侵攻したことで、第二次世界大戦が勃発します。そして当時ヨーロッパで猛威を振るったのがヒトラー率いるナチスでした。

ホロコーストと呼ばれるユダヤ人迫害を掲げたナチスは、ヨーロッパ中のユダヤ人を虐殺、または強制収容所に連行します。リトアニアにいたユダヤ人たちは、なんとかしてナチスから逃れようと、日本領事館に押し寄せました。彼らが助かるにはソ連から日本を経由し、他国へ行く道しか残されていませんでした。

〇ユダヤ人のために6000人分のビザを発行

しかし、日本政府はそのためのビザの発行を行わないように命令します。それでも目の前の人々の命を見捨てられない千畝は、独断でビザを発行することを決断します。

そこから約1ヶ月の間に千畝は寝る間を惜しんで6000人以上のユダヤ人にビザを発行し、彼らの命を救いました。その後はヨーロッパの領事館を転々とし47歳で日本に帰国、そのまま外務省も辞めました。

その後は得意の語学を生かし貿易会社で働き、主に海外を生活の拠点としていました。そして1985年にはユダヤ人の命を救った功績により、イスラエル政府から日本人として初となる「ヤド・バシェム賞」が贈られました。その翌年、杉原千畝は86歳でその生涯を終えました。

 

◎人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ