今日は6月9日(金)です。今日から「渋沢栄一」の名言です。

今日は6月9日(金)です。今日から「渋沢栄一」の名言です。

まずは「渋沢栄一」について。

○江戸時代の末期に生まれる

渋沢栄一は江戸時代の末期である1840年に現在の埼玉にある武蔵国で生まれます。渋沢家は農業や藍の製造販売など、商売を幅広く行う家でした。

栄一は6歳になると父親から学問を教えられ、一年間で多くの本を読みました。その中には儒教の教えが書かれた「論語」もあり、この孔子、儒教の教えが栄一の道徳観に大きな影響を与えました。

7歳になると従兄弟の尾高惇忠から学問を習い、その後大人になってもこの尾高とは良い関係が続き、重要な局面で栄一を支える人物となります。

○倒幕を志すが真逆の道、幕臣となる

14歳になると家業である藍の買い付けに一人で行くようになり、そこで商才を発揮します。よい藍の葉を安く仕入れ、14歳ながら仕入先と対等に話をしていたと言われています。

1853年にペリーが来航すると尊王攘夷運動(天皇政権を唱えと外国排除を訴える)が過激化していきます。農民出身の栄一も江戸時代の身分制度に不満を抱いていたため、倒幕を目指してこの流れに加わっていきます。

しかし、ひょんなことから知人の紹介で一橋家、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣として仕えることとなると、この慶喜が徳川最後の将軍になってしまいます。栄一もそれに伴い幕府の家臣として働くこととなり、少し前までは倒幕を目指していたのに、真逆の道に進むこととなりました。

○ヨーロッパで近代文化を学ぶ

そして1967年に幕臣としての仕事、パリ万博視察のためにフランスに向かった栄一。視察後、約2年間にわたりヨーロッパ各国を訪問し、最新鋭の技術や文化を吸収します。このヨーロッパでの体験が栄一に多大な影響を与え、その後の日本の改革にも大きく貢献していきます。

ヨーロッパから帰国すると徳川慶喜は大政奉還した後で、幕府はなくなっていました。慶喜は栄一に「これからはお前の道を行きなさい」と伝え、ここから栄一は独自の道をつくっていくこととなります。

まず日本で初めてとなる株式会社を設立し、初めて資本主義を日本に持ち込みます。これらもフランスに行った時に学んだことでした。

○500以上の企業設立に携わる

その後大隈重信の誘いにより大蔵省に入省し、国立銀行条例や新貨幣をつくるなど様々な改革をおこなっていきます。しかし予算編成などを巡って大隈重信や大久保利通と対立、4年ほどで大蔵省を退官しました。

退官後すぐに日本最古の銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀こう)を創設し、「銀行」という言葉も渋沢栄一が決めたと言われています。その後は実業家として活躍し、500を超える企業設立に携わりました。そこには現在も続く数々の大企業もあり、日本の経済に多大な影響を与えました。

また社会貢献にも熱心で日本赤十字社の設立や関東大震災復興のために寄付金集めなど、これらの活動にも実業家の中でも最も情熱的に取り組んだと言われています。

また一橋大学や日本女子大学の設立に参加し、日本の経済、文化、教育などの礎を一人で築くくらいの偉大な功績を数々残しました。そんな栄一は過去2回ほどノーベル平和賞にノミネートもされています。明治の日本の躍進に大きく貢献した渋沢栄一は1931年、92歳で息を引き取りました。

◎真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。