今日は5月8日(月)です。今日から「西郷隆盛」の名言です。

今日は5月8日(月)です。今日から「西郷隆盛」の名言です。

まずは「西郷隆盛」について。

○腕の怪我から武術よりも学問を選ぶ

西郷隆盛は1828年には薩摩(現在の鹿児島県)に生まれます。西郷家は下級武士の家系でした。

武士の家に生まれ隆盛ですが、11歳の時に友人の喧嘩の仲裁に入ったところ喧嘩相手が不意に抜いた刀が隆盛の腕の神経を切ってしまいます。

この怪我で隆盛は生死の境をさまようほどの高熱にうなされますが、なんとか命は助かりました。しかし刀が握れない体になってしまったため、武術ではなく、学問で生きていこうと考えます。

○一つの嘆願書をきっかけに出世

その後16歳で薩摩の郡奉行をしていた迫田利済につかえ、年貢を集め、調査、管理する役職をつとめます。またこの10代の時に陽明学や禅などを学びました。

あまり重要な役職でもなく、元々武士としての身分も低くあったことから出世は望めないと思われいましたが、農政に関する嘆願書を出したことで状況が変わり始めます。

当時の藩主であった島津斉彬はそんな隆盛に注目するようになり、参勤交代のお供に隆盛を連れていき、上の階級の人とも顔合わせができるようにと庭の手入れをする庭方役に任命します。その時隆盛は26歳でした。

○薩摩藩になくてはならない存在となる

しかしその4年後、隆盛が心から慕っていた島津斉彬が急死してしまいます。絶望に陥り、自らも死のうかと考えた隆盛ですが、仲間たちの説得により何とか思いとどまります。

この年1858に起きた安政の大獄(幕府による武力弾圧)により、日本の情勢はどんどん不安定になっていきます。そんな中、隆盛は新しい薩摩藩主と対立し、島流しにされてしまいます。

しかしその後1863年に起きたイギリスと薩摩藩との戦争である薩英戦争により薩摩は大打撃を受けます。そんな苦しい状況を変えるために必要とされたのが隆盛でした。

○西南戦争により亡くなる

薩摩に呼び戻された隆盛は軍賦役に任命されると、仲違いしていた長州と薩長同盟をむずび、長い間続いてきた徳川幕府の終焉となった大政奉還にも大きな影響を与えました。

明治時代が始まると廃藩置県を行うなど、新しい改革にも貢献しますが、その後政府のメンバーらと意見の対立を起こし最終的には明治政府を離れます。

薩摩に戻った隆盛は子どもたちに軍事や勉強など様々なことを教える私学を設立しました。しかし次第に影響力を増してきた隆盛を敵対視した明治政府は西南戦争により隆盛を追い詰めます。そして1877年、西郷隆盛はその日本最後の内戦により49年の生涯を終えることとなりました。

◎小人は、己を利することを欲し、君子は、民を利することを欲する。