今日は4月30日(日)です。今日から「黒澤明」の名言です。

今日は4月30日(日)です。今日から「黒澤明」の名言です。

まずは「黒澤明」について。

○画家を目指した学生の時代

黒澤明さんは明治時代の終わり、1910年に東京の品川で生まれます。

体育教師だった父親の勧めで、幼少期から映画に慣れ親しんでいたようで、主に西部劇などの洋画を観ていたと言います。

小学生の時は絵を描くことが好きだった黒澤さん。しかし個性的な作風の絵を同級生に笑われ、気の弱かった彼はいじめの対象でした。しかし担任の先生だけは黒澤さんの絵を褒め続け、それにより自信をつけた黒澤さんは、後にこの担任先生を生涯の恩師と語っています。

そんなこともあってその後画家を目指し美術学校(現在の東京芸大)を受験しますが、結果は不合格。しかし画家の道を諦めきれず、洋画を勉強、二科展に静物画が入選するまでになります。

○助監督に応募し映画業界へ

そんな中、次第に自分の画家としての才能に疑問を感じ始めた黒澤さんは、ある日、新聞に助監督募集の広告が出ているのを偶然見つけ、すぐさま応募。

100人に1人の狭き門を突破し、現在の東宝になるP.C.L.映画制作所に入社することになります。そして山本嘉次郎監督など、様々な監督の下で助監督を務め、経験を積んでいきました。

山本監督の「監督になりたければシナリオを書け」という助言の元、忙しい助監督業のかたわら、脚本を書き続けます。その後、手がけた脚本で賞を受賞し、注目されるようになります。

助監督として異例の速さで昇進、33歳で監督としてデビューを果たします。初監督作品である「姿三四郎」は大ヒット、山中貞雄賞を受賞しました。

多作なことでも有名な黒澤さんはこのデビュー以降、55歳まで毎年のように作品を発表し続けました。

○世界のクロサワへ

1950年、人間不信をテーマに描いた「羅生門」が公開されると、海外で高い評価を獲得。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞し、「世界のクロサワ」として注目されるようになります。

この羅生門で主演を務めた三船敏郎さんとは、三船さんがデビューしたての頃からの間柄で、黒澤さんは三船さんの才能に一目惚れし、2人が組んだ作品は16本にもなりました。

その後もヒューマンドラマの傑作と言われる「生きる」や上映時間3時間半にも及ぶ大型時代劇「七人の侍」など、作品を次々にヒットさせます。

黒澤さんは生涯で、アカデミー賞をはじめ世界三大映画祭と言われるヴェネツィア、カンヌ、ベルリンすべてで賞を獲得しました。

○最後まで現役監督として

黒澤映画は日本のみならず現代に生きる映画監督に多大なる影響を与えてきました。

「スターウォーズ」の監督であるジョージ・ルーカスや「未知との遭遇」や「E.T」などのスティーヴン・スピルバーグなど、誰もが知る名監督たちもその1人でした。

死ぬ間際まで作品を作り続けていた黒澤さん。1995年に「雨あがる」の脚本を書いていた頃、京都の旅館で転倒、骨折しそのまま療養生活に入ります。

そして1998年に脳卒中により88歳の人生を終えました。

◎頑張ることは理由にならない