今日は4月23日(日)です。今日から「空海」の名言です。

今日は4月23日(日)です。今日から「空海」の名言です。

まずは「空海」について。

○役人になるために勉強

空海は774年、讃岐の国(現在の香川県)に生まれます。父親は郡司という役人で、まわりの地域を治めていました。空海も役人になるべく幼少期から勉学に励みます。

国学と言われる学校では儒学や医学などを勉強していたと言われています。国学の先には大学という学校がありましたが、大学は基本的に高い位の貴族しか入れないところでした。空海の家の位だと大学に入るためには国学での良い成績が求められました。

そんなこともあり、必死に勉強した空海は好成績で国学を卒業すると、大学の進学を目指し15歳の時に都のある京都の長岡へ行きます。そこで大学の入試に向けて朝早くから夜遅くまで勉強の生活を3年ほど続けました。

そして791年に無事に大学に合格。明経道という儒学、歴史、漢文などを学ぶ学科に進みます。しかし次第に大学の授業や役人になることに価値を見出せなくなり、同時に仏教の教えに興味を惹かれるようになります。

○大学を辞め、仏教の道へ

その後、結局大学も辞めてしまい、山で修行を行うようになりました。また故郷の四国に帰り、いろいろな山々を渡り歩きながら修行を続けたと言われています。

この頃に大乗仏教の教法の一つである密教の教えを説いた「大日経」に出会い、空海はこれを解読しようといろいろな経典を読みあさりました。また24歳の時には仏教の素晴らしさを説いた「三教指帰」という書物を書きます。

空海は密教をもっと学びたいと思い、留学僧として唐(現在の中国)へ行こうと考えます。そのために唐の言葉を学び、それに備えていました。

803年に遣唐使船の出港が決まりますが、空海は残念ながら留学僧になることができませんでした。この時、同時代に生きた有名な僧、最澄が1年の短期留学生として船に乗っていました。

○運良く遣唐使になり、密教を学ぶ

20年に一度といわれる遣唐使船に乗ることができず、落胆していた空海ですが、出発した船が途中で嵐にあい、引き返してきたという報告を受けます。そして運良く人員補充のメンバーに選ばれ、念願の唐の都長安に降り立ちました。

そして密教の第一人者といわれる恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に弟子入りし、教えを受けます。そこで密教を学んだ空海は日本で布教しようと、たまたま日本から来ていた使者の船に乗り、本来なら20年のところを2年で帰国することとなりました。

その後、京都の高雄山寺に入り、本格的に密教を広める活動を始めます。そして先に帰国していた最澄も空海から密教を教えてもらおうと訪ねてきました。

しかし、次第に仏教に対する考え方の違いが生じ、空海と最澄は仲違いしていきます。(これには諸説あり、お互い布教活動が忙しくなったため距離ができてしまったという説もあります)そして空海はより密教を深く探求しようと高野山に入り、修行をすることにしました。

○仏教だけでなく社会貢献も

空海は唐で仏教だけでなく、様々な学問も学んだと言われています。そして、その知識を生かし社会事業なども行っていました。その一つが現在も日本最大の農業用ため池として使われている満濃池の堤防作りで、これにより田畑は水害から守られたと言われています。

また身分関係なく勉強をできる学校をつくろうと、日本で初めての民衆のための学校である綜芸種智院を開校し、お金がなくても学べるように学費は免除され、食事なども支給されてました。

そして空海が入定した90年後、921年に醍醐天皇より「弘法大師」の称号が与えられました。現在のお遍路の傘には「同行二人」という文字が書かれおり、これは弘法大師と2人で道を歩くという意味合いが込められています。

◎人を思いやる気持ちと、人に利益をもたらす行動をすることが全ての根本である。