今日は4月15日(土)です。今日から「北里柴三郎」の名言です。

今日は4月15日(土)です。今日から「北里柴三郎」の名言です。

まずは「北里柴三郎」について。

○幼い頃は武士を志す

北里柴三郎は1853年に熊本県の阿蘇に生まれます。時代は江戸時代の末期で、柴三郎の父親は庄屋という村の役人の仕事をしていました。両親は教育に厳しく、柴三郎は8歳で漢学者であった伯父の家に預けられ学問を学びます。

2年間伯父の家で過ごし、その次は母方の祖父の家に行き、儒教学者の園田保の塾で漢学や儒教を学びました。しかし小さい頃の柴三郎のは両親の思いとは違い、武士になることを願っていました。

14歳になった柴三郎は実家に戻ると、武道を習おうと熊本に向かいます。そしてなんとか17歳の時に細川藩の藩学校に入学することができました。しかしその頃は明治が始まってすぐの時期で、なんと入学から間もなくして藩学校は廃止されてしまいます。

○医者嫌いからの心変わり

どうしようもない状況に柴三郎はしぶしぶ実家に戻ります。そして学問を重んじる両親の勧めで18歳の時に熊本医学校に入学することになりました。

しかし当初の柴三郎は「医者と坊主にはなりたくない」と医学を勉強するのを心底嫌がっていました。そんな柴三郎を大きく変えたのが、その学校で教師をしていたオランダの軍医マンスフェルトでした。

彼はオランダ語がすぐに堪能になった柴三郎に目をかけ、医学の面白さや奥深さを教えます。その影響は大きく、柴三郎は徐々に医学に心惹かれるようになっていきました。

○ドイツ留学しロベルトコッホに師事

3年間在籍した熊本の医学校を終えた柴三郎は、さらに医学の道を深めようと23歳で東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学します。この学生の期間に「治療」ではなく「予防」する医学に関心を持ち、日本の予防医療に尽力しようと内務省の衛生局に就職します。

そして33歳の時にドイツのベルリン大学に留学します。そこで師事したのが結核やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖とされるロベルト・コッホでした。

柴三郎はコッホのもと勉強と研究に没頭します。それは下宿先と大学の道以外のことは知らなかったと言われるほどでした。そんな熱心な取り組みもあり、留学中の1889年に破傷風の純粋培養に成功し、血清療法という画期的な治療法も編み出すなど、世界的な細菌学者として一気に知られるようになります。

○ペスト菌を発見し、医学部を創設

6年間の留学を終えた柴三郎は39歳で日本に帰国します。日本に帰ると福澤諭吉が柴三郎を支援し、私立伝染病研究所を設立します。そこで柴三郎は初代所長を務め、伝染病予防や細菌学の研究に尽力しました。

1894年には香港で流行していた伝染病で人類の歴史を見ても最も致死率が高かったとされるペストの原因を究明します。そして研究の末、ペスト菌を発見する偉業を成します。

その後、自身の研究所である「北里研究所」を創設し、研究だけでなく門下生の教育にも力を入れました。64歳の時には慶應義塾大学の医学部を創設、また日本医師会の初代会長を務めるなど日本の医学の発展に勤しみました。

そして1931年、日本の医学に多大なる功績を残した北里柴三郎は、東京にある自宅で78年の生涯を終えました。

◎医の基本は予防にある