今日は3月28日(火)です。今日から「川端康成」の名言です。

今日は3月28日(火)です。今日から「川端康成」の名言です。

まずは「川端康成」について。

○生まれてすぐに両親を亡くす

川端康成は1899年に大阪府に生まれます。父親は医者で自宅で個人病院を営んでいました。しかし病院経営がうまくいかず、また病気がちだった父親は康成が生まれてからすぐに亡くなってしまいます。

そしてその翌年には母親も病気で亡くなり、康成は祖父母に育てられることになりました。

7歳の時に小学校に入学した康成ですが、父親に似て体はあまり丈夫ではありませんでした。そのため学校も休みがちだったといいます。それでも勉強は得意で成績もよく、特に作文はその才能を発揮していたと言われています。

○中学2年の時に作家になることを決める

中学に進むと学校まで6キロ近くの道を毎日歩いて登校することで、虚弱体質は改善されていきました。

小さい頃から読書が好きだった康成は中学2年生の頃から将来作家になる事を決めていたと言います。そして文芸雑誌や文学書を読みあさり、生活よりも本が優先で本代で食べるのも苦労するくらいでした。

数年前に祖母を亡くし、唯一の家族であった祖父も康成が中学3年の時に亡くなってしまいます。ひとりになってしまった康成は母方の伯父に引き取られます。

○大学を卒業後、本格的に作家の道へ

中学を卒業後、同級生が地元で就職や進学するのをよそに、康成は1人だけ東京の高校に進みます。高校でも変わらず文学に親しんだ彼は、21歳の時、東京帝国文学部英文科に入学します。

在学中に先輩にあたる菊池寛(のちに文藝春秋を創設する)と出会います。康成は創設当時の文藝春秋に参加するなど、菊池と深く交流していきました。芥川龍之介との出会いもこの菊池寛の紹介によってでした。

25歳で大学を卒業すると、仲間たちと同人雑誌「文藝時代」を創刊します。その2年後には初期の代表作である「伊豆の踊子」を書き、初の処女作品集「感情装飾」も刊行されました。

○日本人初のノーベル文学賞受賞

その後も「雪国」「千羽鶴」「眠れる美女」と代表作を発表していった康成。その作風の多様さから”奇術師”と呼ばれるくらい様々なジャンルや手法に着手していきました。

日本で確固たる実績を築いた康成は1968年、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」という理由により、日本人として初めてとなるノーベル文学賞を受賞しました。

しかしその3年後の1971年にガス自殺により突然亡くなってしまいます。遺書もなく、そのいきなりの訃報は世に大きな衝撃を与えました。日本を代表する文豪、川端康成は72歳でその生涯を終えました。

◎日本の子供には、もっと孤独を教えないと、思想は生まれませんね