今日は3月20日(月)です。今日から「嘉納治五郎」の名言です。

今日は3月20日(月)です。今日から「嘉納治五郎」の名言です。

まずは「嘉納治五郎」について。

〇兵庫の名家に生まれる

嘉納治五郎は1860年に兵庫県で生まれます。治五郎生まれた場所は酒造業が盛んな地域で、嘉納家も代々酒造りを事業としていました。地元でも有名な名家で暮らしはとても裕福でした。

しかし婿養子として嘉納家に入った父は酒造業は行わず、単身大阪に移り後に勝海舟と出会ったことで運搬業に携わるようになります。仕事が忙しい父親は家にはほとんど帰れず、幼少期の治五郎は主に母に育てられました。

治五郎の母は思いやり深い人で、困っている人は放って置けない人の為に尽くすことを大切にしていました。そんな母の姿は治五郎が成長する上で大きな影響を与えました。

そんな母は治五郎が9歳の時に亡くなってしまいます。そこで治五郎は父が住む東京に移り住むことになりました。明治初期、これからは学問の時代と感じた父親は治五郎の教育にも熱心でした。

〇学校でいじめられないようにと柔術に興味を持つ

14歳で育英義塾に入学すると洋学、英語、ドイツ語などを学びます。勉強熱心で成績も優秀だった治五郎。しかし小柄だった彼はいつも同級生に馬鹿にされる学校生活をおくります。

学校でいじめられないように体を強くしたいと思った治五郎は非力でも力の強い者にも勝てる柔術に興味を持つようになります。そして18歳になり東京大学に入学すると寝技、絞め技を得意とする天神真楊流の福田道場に通いはじめます。

しかし治五郎が道場にも慣れてきた頃、師範の福田が急死してしまいます。遺族の希望により若干20歳で福田道場を引き継ぐことになった治五郎はさらなる修行を求め、起倒流の飯久保恒年に師事します。起倒流は投げ技を得意とし、天神真楊流とはまた違った柔術でした。

〇独自の柔術を研究する

2つの流派を学んだ治五郎はさらに柔術に打ち込み、様々な技を徹底的に研究するようになります。そして文明開花も伴って時代に合わない古いものと言われた柔術をもっと多くの人に受け入れられるものにしたいと独自の柔術を模索し「柔道」を考案します。柔道は体だけでなく精神を強くするもの「人の道」を教えるものであると言う意味で名づけられました。

そして22歳の時にお寺の一角にあった12畳半の小さいスペースに講道館という道場を開きます。そして10名ほどの門下生で始まったこの道場は4年余りで500人を超える大きさに成長します。

同じ年に学習院(学習院大学)で教職に就いた治五郎は、その後は熊本大学の校長、そして東京高等師範学校(筑波大学)の校長を務めるなど教育者としても長年活躍しました。

〇日本人として初めてIOC委員に選任

そして49歳の時、柔道を始め様々な分野で活躍していた治五郎は日本人として初めてIOCの委員に選任されます。治五郎は「スポーツを通して世界平和に貢献する」というオリンピックの精神に共感し、第5回のストックホルム大会ではオリンピック初の日本人選手を送り出します。

それ以降もオリンピックに精力的に携わった治五郎は東京でのオリンピック開催を目指し奮闘しますが、当時の日本は日中戦争など軍事行動のため開催に反対する声も多くありました。

しかし77歳時にエジプトのカイロで開かれたIOC委員会で東京開催を訴え、ついに日本でのオリンピックが決定します。軍国主義の日本に対して他の国の人々が多くの票を入れたのは治五郎の人柄と熱意によるものでした。

念願の東京オリンピック招致が決定した矢先、治五郎はカイロでの会議から帰国する船の中で肺炎を患いそのまま帰らぬ人となってしまいます。その後第二次世界大戦が勃発し、治五郎が願った東京オリンピックの開催は叶いませんでしたが、治五郎の人生は最後の最後までスポーツと教育の発展と共にありました。

◎柔を能く、剛を制す。