今日は3月13日(月)です。今日から「勝海舟」の名言です。

今日は3月13日(月)です。今日から「勝海舟」の名言です。

まずは「勝海舟」について。

○遊び相手として江戸城で奉公

勝海舟は1823年に江戸で生まれます。旗本の子どもとして生まれますが、先祖代々武士というわけではありませんでした。曽祖父は目が不自由で、当時盲人に許されていた高利貸しの仕事で成功し、武士の身分を獲得しました。

そんな曽祖父の功績により武士として育った勝海舟は7歳の時に徳川家のお孫さんの遊び相手として、江戸城で過ごします。しかし2年ばかりでお孫さんが亡くなり、その後赤坂に住まいを移します。

武士とはいえ勝家の生活は貧しいものだったといわれています。それから勝海舟は道場で剣術の修行のほか、蘭学や禅などもに真剣に打ち込んでいきます。

○蘭学を教える塾を開設

特に蘭学にはとても熱心で、日蘭辞書58巻全部を一年がかりで写し切るなど、早くから外国に対する興味と知見がありました。

そんなこともあって28歳の時に蘭学と兵学を教える私塾を開きます。これにより勝海舟の名前は徐々に世間に伝わっていきました。

そして勝海舟が31歳の時、日本の歴史を大きく動かすペリーの黒船が来航します。この一大事に幕府は混乱し、大名から町人に至るまで様々な意見を募集しました。これに勝海舟も意見書を提出、のちに幕府の目に止まり、彼は幕府の役人へ昇進しました。

オランダ語が堪能だった勝海舟はその後長崎の海軍伝習所に入門し、オランダ人教官との連絡係や教監などに取り組んでいました。

○使節団の艦長としてアメリカへ

1860年、開国を決めた幕府は使節団をアメリカに派遣します。勝海舟はその船の艦長に任命され、福沢諭吉などもその船に同乗していました。

そして1962年に坂本龍馬が勝海舟のもとを訪れます。坂本龍馬は海舟から外国の話などを聞き、その日のうちに弟子入りを志願します。そのくらい尊敬の念で海舟と対していました。

そこから神戸に海軍操練所を設立し、海舟はそこで指導を任されます。また操練所とは別に海軍塾という私塾も設け、坂本龍馬はそこの塾頭として活躍しました。

○西郷隆盛との会談。江戸城の無血開城

時代は幕末。幕府の力も衰え、ついに1867年徳川慶喜が大政奉還をし、江戸時代は終わりました。翌年には新政府軍と旧幕府軍との間で内戦である戊辰戦争が起きます。

勝海舟の最大の働きと言われているのは江戸城の無血開城です。新政府軍を率いていた西郷隆盛は江戸を攻撃しようとしますが、勝海舟は直前に西郷に会談を持ちかけます。様々な条件を提示し、その交渉の成功により、江戸の住民150万人と町は争いの炎から救われたのでした。

明治時代で勝海舟は新政府に一員になるも、あまり気が進まず、すぐに辞職しています。晩年は静かに赤坂で過ごし、77歳でその生涯を終えました。

◎敵は多ければ多いほど面白い。