今日は3月6日(月)です。今日から「織田信長」の名言です。

今日は3月6日(月)です。今日から「織田信長」の名言です。

まずは「織田信長」について。

○2歳で城の城主となる

織田信長は1534年に、尾張国(現在の愛知県)で生まれます。父親は織田信秀は守護代に仕える清州三奉行のひとつを務め、今川氏豊から那古野城(現在の名古屋城)を奪うなど、尾張の中でも勢力を広げていました。

そんな織田家に生まれた信長は、若干2歳の時に信秀から那古野城を与えられ、城主となります。そのままその城で育った信長は12歳の時に元服(成人の儀式)をし、この時から「信長」という名前を名乗るようになりました。

そして翌年には初陣を果たし、また18歳の時に父が亡くなると家督を相続し、若くして大きな責任を背負うこととなります。しかし信長は傍若無人で粗暴な振る舞いから「尾張の大うつけ」と揶揄されていました。

○若くして尾張を統一

そんな信長をみて家臣から離れる者もいたほどですが、大胆な信長はそのまま尾張の国を統一しようと動き出します。19歳の時に清洲城の織田信友を滅ぼすと、本拠を清洲城に移します。

その後、信長に反発し尾張で一定の権力を持っていた弟の信行を倒し、そして浮野の戦いにおいて岩倉城の城主、織田信賢を降伏させ、24歳で尾張国の統ーに成功します。

しかし世は戦国時代。統一したのも束の間、1560年、隣国駿河の大名、今川義元率いる2万5千を超える兵が、尾張に侵攻してきます。その時、対する信長の兵はわずか2千人でした。

○鉄砲を使い長篠の戦いを勝利する

数で圧倒的に劣る信長は、雨の中で休息していた今川軍を奇襲する戦略をとります。これが桶狭間の戦いで、大雨の中攻めてくることはないだろうと、たかをくくっていた今川軍は急な攻め入りに態勢を立て直せないまま敗れてしまいます。

この大勝利により信長の名前は全国に知られるようになりました。勢いづく信長を討とうと全国の様々な武将が信長包囲網を張るなか、1575年に戦国最強と呼ばれた武田軍と対戦します。

長篠の戦いと呼ばれた有名なこの合戦で、信長は初めて鉄砲を実戦で使います。まだ性能が不安定だった当時の鉄砲ですが、新しい技術を取り入れる信長の大胆さが実り、この戦も大勝利を収めました。

○明智光秀の謀反により死去

そして翌年の1576年には安土城を築き、天下統一のために羽柴秀吉(豊臣秀吉)などの家臣を地方に送り、一気に平定を図ります。

しかしそんな天下統一目前にして、家臣のひとりである明智光秀が謀反を起こします。秀吉への援軍を命じられていた光秀は「敵は本能寺にあり」と急遽、京都の本能寺に宿泊ていた信長を襲撃します。

兵を100人ほどしか配備していなかった信長は、大軍で押し寄せた光秀になす術はなく、最後は寺に火を放ち自害しました。織田信長は悲願の天下統一を目前に、49歳でその生涯を終えることとなりました。

◎必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。