今日は2月27日(月)です。今日から「岡本太郎」の名言です。

今日は2月27日(月)です。今日から「岡本太郎」の名言です。

まずは岡本太郎について。

○芸術家の子ども

岡本太郎さんは漫画家の父、小説家の母という芸術一家の長男として、1911年神奈川県で生まれます。

小学校の頃はあまり周りと馴染めず、転校を繰り返していました。勉強もあまり得意ではなかったと言います。

幼少期から絵を描くことは好きで、中学生になると次第に「何のために描くのか」という疑問にさいなまれ、そんな気持ちを抱えながら画家を目指し東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科に入学します。

○パリでピカソの作品と出会う

芸大に入学したのもつかの間、父親が仕事でイギリスへ行くことになり、彼もそれに同行するため半年で大学を辞めます。

両親はイギリスに行き、岡本さんは単身フランスのパリへ渡ります。その後ご両親は帰国しますが、岡本さんは一人で残り、10年ほどパリに滞在していました。

パリではフランス語を勉強するかたわら、幼い頃に抱いた「何のために描くのか」に対する答えを求め、大学で美学や民族学、哲学などを学んでいました。

そんな時に、たまたま立ち寄った画廊でパブロ・ピカソの絵と出会います。岡本さんはピカソの作品に衝撃を受け、そこから抽象芸術の道を志すようになりました。

○戦地での兵役

1940年、ドイツのパリ侵略により日本に帰国した岡本さん。帰国してからも個展を開くなど創作活動を続けますが、日本も太平洋戦争中、ほどなくして岡本さんも徴兵され中国に出征します。

その時の岡本さんは30歳、漫画家の子どもでパリ帰りの画家という経歴から、上官からいじめの対象とされてしまいます。毎日のように死人が出る厳しい環境の中、岡本さんはこの場所で積極的に生きようと決心します。

ある上官は演習後に部下を並ばせ、順番に殴るということもありました。そんな理不尽な状況でも一番上官の力が入るのが4番目あたりだと気づくと、自ら4番目に立つことを引き受け「最悪なところは全部俺が引き受ける」という強い精神力で5年ほどの兵役生活を乗り越えました。

○後世に残る作品たち

戦場から帰国するも、東京は度重なる大空襲により焼け野原でした。岡本さんの家や今まで制作した作品もすべて燃えてしまっていたといいます。

そんな過酷な状況の中から、世田谷にアトリエを構え、また作品作りをスタートさせました。

その後、現在は渋谷駅に設置されている「明日の神話」や大阪万博の「太陽の塔」など後世に残る作品を生み出した岡本さんは、1996年に84歳でこの世を去りました。

◎自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい。

今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを越えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ。