今日は2月13日(月)です。今日から「内村鑑三(うちむらかんぞう)」の名言です。

今日は2月13日(月)です。今日から「内村鑑三(うちむらかんぞう)」の名言です。

まずは「内村鑑三」について。

○少年期から英語を学ぶ

内村鑑三は1861年、江戸の町に生まれます。父親が3度自己を鑑みるという意味合いをこめ、鑑三と命名されます。

時代が明治に入ると鑑三は英学校に入り、英語を勉強し始めます。またその後、有馬学校の英語科に入学し1年勉強した後、東京外国語学校に編入しました。

そこで生涯の友となる「武士道」の著者で5千円札の肖像画にもなった新渡戸稲造や植物学者の宮部金吾と出会います。鑑三はこの学校で初めて旧約聖書に触れ、キリスト教を知りました。

○札幌農学校に入学

そして1876年に北海道開拓の技術者を育成する札幌農学校の有志学生に立候補し、北海道へ行くこととなります。

札幌農学校の初代教頭を務めたクラーク博士が道徳教育にキリスト教を用いていたこともあり、学生たちも生活の中でキリスト教に触れていました。

鑑三は最初キリスト教に否定的な立場でありましたが、次第にその思想に惹かれていくようになり、最終的にキリスト教に改宗しました。その時にヨナタンというクリスチャンネームを自分でつけます。

○単身アメリカへ

学校では水産学を専攻し、農学士として首席で卒業するなど優秀な学生でした。卒業後は北海道開拓使民事局勧業課に務めるかたわら、当時は札幌に教会がなかったこともあり、学校の外に独立したキリスト教の教会を創りました。

1884年には単身、アメリカのサンフランシスコに渡ります。最初は知人の紹介から養護学校の看護人として働き始め、一時は医者になることも考えましたが、最終的に伝道師の道を選びます。

約4年のアメリカ滞在から帰国した後、鑑三は学校で教員となりました。しかし最初に教頭として赴任した新潟の北越学館では、そこの宣教師たちとあまりいい関係が築けないこともあり、わずか4か月で辞任します。

○日本初の聖書雑誌の創刊

次に赴任した第一高等中学校では教育勅語への礼拝を十分にしなかったことが不遜とされ、同僚や生徒から非難を浴びます。その後この問題はマスコミのより拡大し不敬事件と呼ばれるようになりました。

弾圧により教師の道を閉ざされた鑑三に追い打ちをかけるように妻が病気で亡くなり、自身も病気を患ってしまいます。そんな鑑三を救ったのが新渡戸稲造などの旧友たちで、札幌を訪れた時に彼らと再会を果たし、徐々に体調も回復していきました。

その後、本格的に伝道師としての道を進むことになった鑑三は、日本で最初の聖書雑誌である「聖書之研究」を創刊するなど、晩年まで精力的に伝道活動に取り組んでいました。そして1930年69歳でこの世を去りました。

◎小さな勇気を持て。あなたが思うことができることはあなたができることだということ。