今日は2月8日(水)です。今日から「上杉謙信」の名言です。

今日は2月8日(水)です。今日から「上杉謙信」の名言です。

まずは上杉謙信について。

〇15歳で初陣をかざる

上杉謙信は1530年に越後国(現在の新潟県)の戦国大名、長尾為景の四男として生まれます。当時の越後は内乱が激しく、日々戦をしているような時代でした。

抗争をおさめることができず、1536年に父は隠居し、兄の晴景が家督をつぎ当主となりました。その間、謙信は寺に入門し、禅を学びます。その後父親が亡くなり、他の武将が勢いを増していきました。

また兄の晴景に国を統治する能力がなく、豪族による謀反が起こります。しかしそこに立ちはだかったのが謙信で、15歳ながらこの謀反を鎮圧することに成功します。この戦が上杉謙信の初陣と言われています。

〇22歳で越後の国を統一

そんな武功をあげる謙信の働きに、かねてから晴景に不満を持っていた人々は晴景を退陣させ謙信を当主にしようと動きだします。そして結局、晴景は謙信に家督を譲り、隠退することとなりました。その時、謙信は19歳でした。

しかしその後、謙信の家督相続に不満を持った長尾政景らの武将たちから反乱が起こります。謙信はこれをなんとか鎮圧。越後の内乱はようやく落ち着きをみせ、謙信は22歳で越後統一を果たしました。

その同時期に始まったのが武田信玄との有名な戦「川中島の戦い」です。1553年に第一回の合戦が始まってからなんと12年間、5回に及ぶ大戦を繰り広げます。第五回の合戦では2か月以上にわたりにらみ合いの膠着状態が続き、お互いに撤退することでこの戦いは終わったとされています。

〇語り継がれる武田信玄との関係

「敵に塩を送る」という言葉がありますが、これはこの上杉謙信と武田信玄が由来になっていると言われており、信玄が塩不足により苦しんでいた時、謙信は塩を送り、敵を苦境から救ったとされています。

また何度も謀反や反乱を起こした武将たちも降伏さえすれば命を奪おうとまではしませんでした。そんなエピソードにもあるように人情味に溢れた人物だったと言われています。

信玄との戦いが長期戦になる中で、謙信は次第に毘沙門天堂にこもるようになり信仰の世界に身を置くようになっていきます。一時は出家を志し、高野山に向かおうとしますが、家臣の必死の説得によりそれを思いとどまっています。

〇晩年は織田信長と合戦

晩年は関東へ出陣し、金山城、騎西城、羽生城などを次々と攻略していきました。また当初は同盟関係にあった織田信長ですが、信長が天下統一に勢いづくことで、次第に対立するようになります。

それにより長年争っていた武田や北条家と和睦し、反信長体制をとることになり、その後手取川の戦いで織田信長と戦うことになります。そこで織田軍は死者1000人以上を出し大敗したとされています。

どんどんと陣地を広げる上杉軍。謙信は次なる大遠征を計画していましたが、1577年その準備中に倒れ、脳溢血により亡くなってしまいます。享年49歳でした。

◎心に欲なき時は義理を行う