今日は2月3日(金)節分です。今日から「井深大(いぶかまさる)」の名言です。

今日は2月3日(金)節分です。今日から「井深大(いぶかまさる)」の名言です。

まずは、「井深大」について。

〇機械いじりが好きな少年時代

井深大は1908年に栃木県で生まれます。父親は古河鉱業の技術者をしていました。しかし、大が3歳の時に転倒した怪我の影響でカリエスという病気にかかり、31歳の若さで亡くなってしまいます。

そのため大は母と一緒に祖父の家がある愛知に移り住みました。2年ほどして母親は母校である日大女子大学の附属幼稚園で働くことになったため、2人で東京に引っ越します。

8歳の時に母親が再婚したため、再び祖父の家に戻り、そこで小学校時代を過ごします。小さい頃から機械いじりが好きだった大は自転車のランプを分解したりと、よく実験をしていたといいます。

〇発明品がパリ万博の金賞を受賞

小学校卒業をきっかけに、大は母親のいる神戸に移ります。そして当時最も入学試験が難しいとされた第一神戸中学に見事合格します。この頃も変わらず発明が好きだった大は、ラジオなども自分で作ってしまうほどでした。

その後は第一早稲田高等学院に入学し、そのまま早稲田大学へと進学しました。そして大学3年生の時に光通信の実験から光電話を発明し、「光るネオン」と名付けた特許も取得します。

この光るネオンはパリの博覧会にも出展され、金賞を受賞するなど国際的な評価を得ます。これにより大は天才発明家として注目されるようになりました。

〇海軍だった盛田昭夫と出会う

大学卒業後は写真化学研究所に入社し、しばらくして日本光音工業に転職すると真空管などの研究開発の仕事に勤しみます。社長の植村は大の能力を高く評価し、新たな会社「日本測定器」を設立、大は常務に就任しました。

その後太平洋戦争が始まると軍からの仕事が増え、この時期に盛田昭夫(当時は海軍の中尉)と出会います。そして戦争が終わると日本測定器は解散し、大は東京で新たな会社「東京通信研究所」を設立します。

最初に開発したニュースを聞くための短波受信機が注目され、新聞に取り上げられると、その記事を見た盛田が大に連絡し、2人は再会を果たします。そして1946年、のちのSONYとなる東京通信工業株式会社を設立しました。

〇数々のヒット商品を生み出す

そして1950年に日本初のテープレコーダーを発表すると、その後もトランジスタラジオやトリニトロンテレビなど数々のヒット商品を生み出し、それらは日本だけでなく世界中で販売され「世界のソニー」と呼ばれるようになります。

そんな世界的な企業を創り上げた大は、63歳の時に一線を退き、84歳の時には経済人としては初の文化勲章も受章しています。

引退後も、音楽が趣味だった大は、外でもっと手軽に音楽を聴けないかと考え、ヒット商品ウォークマン誕生のきっかっけを作るなど、最後まで発明家であり続けました。そして1997年、89歳でその生涯を終えました。

 

◎アイデアが重要なのではない。一つのアイデアをどうやって、具体的にしていくかが重要。