今日は1月29日(日)です。今日から「伊能忠敬」の名言です。
まずは「伊能忠敬」について。
〇将来は学者になりたいと夢みた子ども時代
伊能忠敬は1745年に上総国の小関村(現在の千葉県九十九里)で生まれます。祖父の小関五郎左衛門はその地域をまとめる名主であり、父親は婿養子として小関家に入りましたが忠敬が6歳の時に母が亡くなったことで、小関家をでて実家に戻ることとなりました。
しかし忠敬だけは小関家に残り、寺子屋などで勉学に励むかたわら、村の産業であった漁業の手伝いなどをしていたと言います。そして10歳になった時父親の家に移住しました。
その後はお寺でそろばんを習ったり、医者のもとで医学なども勉強し、将来は学者になりたいという夢を持って育ちました。そして17歳の時、酒造を営んでいる伊能家に婿入りすることとなります。
〇家業を立て直し、名主として村を助ける
忠敬が婿入りした伊能家は村で一二を争う家柄で、主な事業である酒造の他にも米穀商や金貸、水運業なども手掛けていました。しかし事業は苦しく、新しく当主となった若い忠敬に大きくその期待がのしかかりました。
忠敬は下火だった事業も倹約などを行いながら地道に営み、また江戸に薪問屋を出店するなど本業以外にも力を入れ、30歳を前にして見事、
経営を立て直しました。
そして36歳の時には名主となり、全国的に多くの死者を出した天明の大飢饉では役所に年貢の免除を嘆願し、私財をはたいて貧窮した村人たちに米やお金を与えました。そんな懸命な働きもあって忠敬の村では大飢饉による一人の餓死者も出ませんでした。
〇50歳で31歳の若者に弟子入り
50歳を目前にして忠敬は家督を息子に譲り、隠居することとなります。しかし幼頃から興味を持っていた暦学などを独学で勉強し始めると、本格的に天文学や暦学を学ぼうと江戸に移住します。
江戸では若き天文学者であった高橋至時に弟子入りし、寝る間を惜しんで勉強に励みました。また巨額の資金を投じて自宅に天文台をつくり、日々観測に勤しみます。
そんな時、忠敬は「地球の大きさを知りたい」という好奇心のもと、測量を始めます。しかし、ある程度の正確さを求めるためには最低でも遠く離れた北海道からの観測が必要と考えました。
そして56歳の時、幕府に正確な地図制作をするという名目で、北海道行きを願い出ました。当時北海道はほとんど測量が行われておらず、現在認知されている形とも大幅に違うものでした。
幕府は正確な地図を必要としていましたが、忠敬をあまり信頼しておらず、最低限の援助しか行わなかったため、この測量のほとんどが忠敬の私財によって行われました。
〇17年をかけて日本地図を作る
約半年かけて北海道の測量と地図を制作した伊能忠敬。その地図の出来栄えは素晴らしく、多くの人を驚かせました。一気に信頼を獲得した忠敬は、その後東北や東日本を皮切りに、日本全国を測量する命を受けます。
忠敬の測量の旅は計10回、17年間に渡って行われる国家事業となりました。自分の歩幅で距離を測るなどの実測であったにもかかわらず、現在の地図と比べても見劣りしないくらいの正確さを誇る地図を作っていきました。
晩年の全てを測量と地図制作に費やした忠敬は最後の地図を作っている途中で体調を崩し、74歳で亡くなりました。その3年後の1821年、弟子たちによってこの地図は「大日本沿海輿地全図」として完成されることとなり、昭和初期まで正式な日本地図として使用されました。
◎儲けは後回しにし、お客さんが喜んでくれることをやりなさい