今日は1月21日(土)です。今日から「稲盛和夫」の名言です。

今日は1月21日(土)です。今日から「稲盛和夫」の名言です。

成績優秀も中学受験に失敗

稲盛さんは1932年に鹿児島県で7人兄弟の次男として生まれます。父親は印刷所を経営していて、比較的恵まれた家庭環境で育ちました。明るく活発な性格だった稲盛さんは小学校でもガキ大将のような存在でした。

小学校を卒業し鹿児島の名門中学である鹿児島一中に進学を試みますが、2度の受験も両方不合格となってしまいます。

しかたなく私立の中学校に入りますが、その後すぐに戦争が始まり裕福だった稲盛家も空襲により家が全焼するなど、苦しい環境に立たされてしまいました。

学校での成績が良かった稲盛さんは働きながら高校に通い、家族に無理を言って大学受験をしました。しかし第一志望の大阪大学は不合格となり、新設校であった鹿児島大学の工学部に入学します。

経営難の会社に就職

稲盛さんは大学でも熱心に勉強し、成績は常に上位でした。そのため就職も困らないと周囲からも言われていましたが、当時日本は戦争後の不況の只中、そのため就職活動するも受けた会社は全て不採用でした。

なんとか恩師の紹介で京都の松風工業という焼き物メーカーに就職することができましたが、入社してみると松風工業の経営は厳しく、給料もまともにもらえないこともありました。

稲盛さんの他に4人が新卒で入社していましたが、一年も経たずに稲盛さん以外の人たちは会社を辞めてしまいました。稲盛さんも辞めようと思いましたが、父親に反対され、結果辞めれなくなってしまいます。

選択肢のない稲盛さんは、どうせならと考えを改め、現在の環境で一生懸命に仕事をしようと思い立ちます。そして新しいセラミックの開発を任されると、次第に食器や布団を会社に持ち込み寝る間を惜しんでセラミック開発に没頭しました。

27歳で京セラを設立

少しずつ成果が出てくると、より仕事に力を入れるようになり、2年が立つ頃には日本で初めて新しいセラミックの合成を成功させた技術者となりました。

しかし3年ほど経った頃、技術的なことで上司と対立し、そのまま会社を辞めてしまいます。それでも稲盛さんを慕う社内の仲間や、稲盛さんの技術力を惜しむ元上司、その周りの人がお金を出資してくれる運びとなり、1959年その資金を元手に京セラを創業しました。

この時稲盛さんは27歳、若い社員を抱えるベンチャー企業でしたが、確かな技術力を武器にアメリカのIBMをはじめ、多くの企業のセラミック部品開発に携わりました。

こうして京セラは瞬く間に一流企業となっていきました。そして稲盛さんは52歳の時に全く別領域の電話通信事業に参入し、第二電電(KDDI)を設立します。

当時NTTが独占していた電話通信料は他国と比べても非常に高いものでした。通信業界に知識のない稲盛さんでしたが、誰でも手軽に電話を使えるようにしたいという思いから事業をスタートさせました。

KDDIの成功とJALの再生

そしてKDDIは大きな成功を収めることとなります。そんな稲盛さんに2010年、政府から2兆円を超える負債をだし経営破綻した日本航空(JAL)の再生を打診されます。

この時、78歳になっていた稲盛さん。高齢ということもあり何度もその依頼を断りましたが、繰り返しの嘆願により、ついに日本航空の会長に就任します。しかも報酬を受け取らないことを自ら願い出ます。

こうしてJALの再建に携わった稲盛さんは、社員の意識改革から少しずつ会社を変えていき、なんと約2年という短期間で日本航空の経営を復活させ、再上場させることに成功したのでした。

2019年まで36年にわたり「盛和塾」という経営塾も開催していた稲盛さん。その人気は日本だけでなく海外でも高く、著書は中国でベストセラーになるなど、多くの人が稲盛さんの経営、そして人生哲学を求めました。

2022年90歳で多くの人々から惜しまてこの世を去りました。

稲盛和夫の名言

◎「人間性や人格」「境遇や環境」は、「思い」によって形成される