今日は1月14日(土)です。「イチロー」の名言です。

今日は1月14日(土)は「イチロー」の名言です。

まずはイチローについてです。

 

〇3歳でキャッチーボールをしていた

イチローさんは1973年に愛知県の名古屋で2人兄弟の次男として生まれます。父親がアマチュアで野球をしていたこともあり、幼い頃から野球に親しみ、3歳の時にすでにキャッチボールをしていたといいます。

小学校に入学すると地元の野球クラブに所属し、本格的に野球に取り組むようになります。また父親とも学校が終わった後に公園で一緒に練習したり、近所のバッティングセンターで毎日のようにバッティングに打ち込むなど、人一倍の練習を重ねていました。

そんなイチローさんは小学校3年生の時には100km以上の速度が出るマシンをいとも簡単に打てるようになっていました。野球チームでもエースで4番として活躍し、試合では場外ホームランを連発するようになります。

6年生になる頃にはバッティングセンターにあった最速マシンも難なく打てるようになり、バッティングセンターの社長さんがイチローさん用にマシンを改造してくれ、128kmのスピードでさらにはそのマシンを近づけて練習するようになりました。

〇中、高校で活躍するもドラフト指名は4位

中学校に入ってもその実力は飛び抜けており、小学校と同じくピッチャーとバッターを両方こなし、3年生の時には全国大会で3位に入るなど、活躍しました。

そして高校は愛知県でも甲子園常連の名門校である愛工大名電に入学します。そんな強豪校でもすぐに頭角をあらわしたイチローさんは一年生の時からレギュラーに定着し、2年と3年の夏甲子園にも出場します。この時、松井秀喜さんと練習試合などで顔を合わせお互いにその存在を意識していたといいます。

甲子園でチームは初戦敗退と、あまり印象は残せなかったイチローさんですが、多くのスカウトも目を留め、プロ入りは確実視されていました。ところがいざドラフト会議が始まると、オリックスに4位での指名。体格が細かったイチローさんを見てプロで活躍するのは難しいと判断した球団が多かったといいます。

〇日本で振り子打法を武器に数々の記録を打ち立てる

こうしてオリックスに入団することとなったイチローさん。早々に一軍に昇格するもあまり良い成績は残せず、当時の監督からフォームの改善を促されます。一度は改善を試みるも成績に繋がらないことを感じたイチローさんは2軍のままで良いから自分のフォームで打たせて欲しいと談判しました。

2軍生活の中で自身の代名詞ともなっている振り子打法に磨きをかけるなか、新しく監督に就任したのが、名将・仰木彬さんでした。

仰木さんは2軍でのイチローのプレーをみるとすぐさま1軍に昇格させ、レギュラーとして起用します。するとこの年にイチローさんは日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打を達成する大活躍を果たします。

そして翌年の1995年には打者5冠王にも輝き、現在でも盗塁王と打点王の同時獲得はイチローさんだけしか獲得していません。

その後も5年連続の首位打者獲得や、日本プロ野球史上最速となる通算1000本安打を成し遂げるなど活躍を続けたイチローさんは2000年に野手としては初めてとなるメジャーリーグへの移籍を果たします。

〇メジャーに移籍。シーズン最多安打の更新

しかし野手でメジャーに挑戦した選手がいない状況で、現地では活躍は難しいという声がとても多くありました。それでもシーズンが始まるとイチローさんはそんな声をかき消すかのような活躍をみせます。安打では242本を打ち、また数々の賞を獲得するなど堂々たる成績を残しました。

そして2004年には84年間破られなかったシーズン最多安打を更新する262安打という大記録を残し、現在でもこの記録は破られていません。

その後も毎年のように200本安打超えを記録するなどメジャーでもレジェンドの活躍を続けたイチローさん。

そして2019年。45歳となったイチローさんはついに引退を発表します。それはマリナーズの開幕シリーズの舞台となった日本での発表であり、多くのサポーターがその最後の勇姿を見守り声援を送りました。

 

「イチロー」の名言です。

◎特別なことをするために特別なことをするのではない、特別なことをするために普段どおりの当たり前のことをする。