今日は「芥川龍之介」の名言です。
芥川龍之介について
〇生まれてすぐ伯母に育てられる
芥川龍之介は1892年に東京で生まれます。実家は牛乳の製造業を営んでいました。しかし龍之介が生まれてすぐに母親が精神を病んでしまい、伯母の芥川フキの家で育てられることになりました。
教育熱心だった伯母の影響もあり、学校に通う前の歳から龍之介は文学に親しむようになります。
そして11歳の時に母親が亡くなると、父親は龍之介を引き取ろうとしますが、元々芥川家との仲がよくなかったこともあり、龍之介の親権をめぐり裁判で争うまでになります。
〇学校での成績は優秀な少年時代
そして最終的に父親は裁判に負け、龍之介は正式に芥川家に養子に入ることとなりました。
中学校での成績が優秀だった龍之介は、当時の制度により試験を受けることなく、現在の東京大学の前身予備校であった第一高等学校に入学します。そして22歳の時に東京帝国大学(現在の東大)毎年数人しか合格者が出ないと言われていた難関の英文学科に合格します。
〇大学時代に羅生門を発表
その翌年には高校の同期であった菊池寛や久米正雄らと共に同人誌「新思潮」をつくります。この時から龍之介の執筆活動が始まりました。
そして1915年、23歳の時に大学の文芸雑誌であった「帝国文学」に自身の代表作の一つとなる「羅生門」を発表します。
この時期に友人の紹介で夏目漱石と知り合った龍之介は門下生として漱石が開いていた勉強の会合「木曜会」に参加し、漱石をとても尊敬し慕うようになります。
〇35歳で命を絶つ
そんな漱石に24歳の時に書いた「鼻」が絶賛されると、龍之介はますます小説の道にのめり込んでいきます。大学も高成績で卒業した後は海軍の機関学校で英語の教官として就職します。
その時期も執筆活動をやめなかった龍之介は、その後毎日新聞に転職し、専業作家として本格的に小説家としての道を歩み始めます。
のちに結婚し子どもにも恵まれた龍之介ですが、次第に病気がちになり、精神も弱っていくようになります。そして1927年に睡眠薬を飲み服毒自殺。35年という短すぎる生涯を終えました。
◎幸福とは幸福を問題にしない時をいう。
◎人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。