今日8月29日(月)は「産屋(うぶや)」についてです。

今日8月29日(月)は「産屋(うぶや)」についてです。

古代には、出産に際して住居とは別に出産のための小屋を設ける風習がありました。日本に限らず世界各地に見られる風習で、現在でもミクロネシアでは産屋で出産が行なわれています。

 日本書紀には、海神の娘豊玉姫が地上に帰ろうとする彦火火出見尊に、「妾(やっこ)すでに娠(はら)めり。我が為に産屋を造りて待ちたまへ」と述べるくだりがあります。後を追って地上に出た豊玉姫は、出産する姿を尊に見られたため、辱められたとして、我が子を妹の玉依姫に預け海に戻ってしまいます。豊玉姫が立ち去る前、尊は、この子をいかに名付けたらよいか、と尋ねています。

 さて、ここに幾つか重要な点が見受けられます。一つ、後世、産屋は男子禁制であったこと。二つ、産屋は「血の穢れを避けて女性を隔離する場所」ではなかったこと。月経や出産を「赤不浄」として忌むようになったのは、男女の社会的地位が逆転した室町時代以降のことです。それ以前にはむしろ、男子が産屋に近づくことが神聖な出産を汚すとされていたのです。産屋が神社の近くに建てられるのはその名残でしょう。

 三つ、古代母系制の社会では、生まれた子の命名権、帰属権は母親にあった、ということです。十一代垂仁天皇も沙本毘売(さほびめ)命に、「誰でも皆、子の名は必ず母が付けるというが、この子の名は何と呼ぶことにしようか」と訊ねることからもうかがわれます。母系制の慣習からして、大師の俗名である眞魚(まうを)も、おそらく母親である玉依御前が名付けたものだったでしょう。

 香川県観音寺市の伊吹島では、昭和45年まで産屋が使用されていましたし、福井県小浜市の色浜では、昭和30年頃まで使用されていました。