今日は12月2日(土)です。今日から「福沢諭吉」の名言です。

今日は12月2日(土)です。今日から「福沢諭吉」の名言です。

まずは「福沢諭吉」について

○下級武士の息子

福沢諭吉は1835年江戸時代の末期に大阪で生まれます。当時の日本は商人の子供は商人に、武士は武士へと身分が決められた社会でした。諭吉の父親は下級の武士であったため、そんな身分制度とは関係のない学問を好んでいたと言います。

しかし父親は諭吉が生まれてすぐに病気で亡くなってしまします。一家は大阪から大分の中津に引越します。生活は苦しいものでしたが、母親は内職をして生計を立て、手先が器用な諭吉はそれをよく手伝っていたと言います。

この時代の武士の子供は6歳ころから塾に通うことが一般的でしたが、諭吉は塾に行かず13歳くらいまで母の内職の手伝いばかりをしていまいた。

そんな諭吉もその後塾に通い始めますが、学ぶのが遅かったため、周りの生徒に知識がないことをバカにされます。それが悔しくて、毎日夜遅くまで勉強し、諭吉の成績はどんどん伸びていきました。

○蘭学を学ぶ

それから数年後、日本にペリーが来航し、江戸幕府に開国を要求する出来事が起きます。この歴史的な事件は遠く離れた中津まですぐに広まり、諭吉の心にも衝撃を与えました。そして当時唯一の貿易国であったオランダの蘭学を学ぼうと長崎へ行くことになります。

ここでも勉強熱心な諭吉は3ヶ月も経つ頃にはオランダ語の本を少しずつ読めるようになっていました。その後一度故郷に戻った後、日本一の蘭学塾とされていた緒方洪庵の適塾に通うため大阪に向かいます。適塾には全国から優秀な若者が集まり、一冊の本を取り合うくらいに皆切磋琢磨して勉学に励んでいたと言います。

それから諭吉は中津藩の命令で江戸で蘭学塾を開くことになります。この時、福沢諭吉は23歳、この塾がのちの慶應義塾として発展していくのでした。

○外国の使節団→慶應義塾

開国後、日本はアメリカやイギリスなどと貿易を始めたこともあり、諭吉は塾で蘭学を教えるかたわら、夜は英語の勉強に励みました。そして勝海舟が艦長を務めるアメリカの使節団の一員に加えてもらい、アメリカへ行きます。

帰国後、翻訳の仕事をします。そして今度はヨーロッパの使節団に選ばれるとフランス、イギリス、オランダ、ポルトガルなどの国々を回り、文明だけでなく、政治や思想など様々なことを学び帰国。

それらの体験をまとめた「西洋事情」という本を出版します。30万冊も売れたこの本によって人々は諸外国と日本の違いを知ることができました。

そして福沢諭吉は33歳の時に生徒の増加にともない塾を引越し、名を「慶應義塾」と改めました。

○学問のすすめの出版

その頃、時代は明治への移り変わり、戦争含め混沌とした世にありました。福沢諭吉は学問こそ、そこに光を照らせる存在になれると信じ、学問の大切さを説いた「学問のすすめ」を出版します。

また「時事新報」という新聞を作り、正当に意見を主張し、正しい情報を得られる社会を目指しました。

その後もたくさんの本を出版し、人々に多くの知識を伝えていった福沢諭吉は66歳でこの世を去ります。お葬式には1万5千人を超える人々が集まり、故人を惜しみました。

◎天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず