今日は9月29日(金)です。今日から「中村哲」の名言です。

今日は9月29日(金)です。今日から「中村哲」の名言です。

まずは「中村哲」について

○夢は昆虫学者

中村哲さんは1946年に福岡県福岡市に生まれます。祖父は港の労働者をまとめる組長で、父親もその下請け業として沈没戦などのサルベージなどの仕事をしていました。

その後父親は家で旅館業を始めると、建築や土木関係の人が仕事のために長期間利用するなど、家はいつも賑やな雰囲気だったといいます。そんな環境で幼少期の中村さんは育ちました。

子どもの頃から虫の観察が好きだった中村さんは、将来は昆虫学者になるのを夢みていました。しかし現実主義であった父親にその夢を反対されると考え、大学は医学部に入ることを決断します。

○32歳の時に初めてパキスタンへ

それでも昆虫に対する想いが強かった中村さんは、医学部から農学部へ転部しようと考えますが、高価な医学書を父が借金をして買ってくれていることを知り、そんな父親の気持ちを裏切れないとそのまま医学部を卒業することを決めます。

27歳で大学を卒業した中村さんは、国立肥前療養所や大牟田労災病院などで神経内科に勤務し、32歳の時、趣味の登山で交流のあった福岡登高会から登山医として同行してほしいとの打診を受け、パキスタンのヒンズークシュ山脈に行くこととなります。

この山脈はモンシロチョウの原産地とも言われている場所で、昆虫が好きだった中村さんは最初は蝶見たさにその依頼を引き受けたといいます。

そこからパキスタンの地に心惹かれるようになった中村さん。38歳の時にたまたまパキスタンのペシャワール・ミッション病院が医師を求めいていることを知ると、日本キリスト教海外医療協力会から派遣され、その病院に赴任することとなります。

○ハンセン病に携わり診療所を設立

そこでは主にハンセン病の治療に携わり、その後アフガニスタンの難民キャンプでも巡回診療を始めた中村さんは、診療所をいくつも建設するなどアフガニスタンとパキスタンの2カ国で活動を広げていきました。

20年近くハンセン病やその他の感染病に携わった中村さん。そんな時の2000年にアフガニスタンを襲ったのが大旱魃でした。中村さんは医療に先立って解決する問題があると、独学で土木を学び、井戸掘りを始めます。そして現地の人の協力を得ながら1000を超える井戸を掘り、多くの人の生活を救いました。

その3年後には旱魃により干やがった農地をよみがえらそうと、「緑の大地計画」を発足し、用水路建設を始めます。この時も独学で学び、その時に参考にしたのが江戸時代の蛇籠(じゃかご)と呼ばれる筒状の編みに細かい石を積み上げる治水技術でした。

これは大きな重機がなくても、現地の人たちで修復や改善ができるようにと考えられたもので、また主に家が石造りで、人々が石を使うことに慣れているといったアフガニスタンの文化に根差したものでもありました。

○用水路をつくり65万人の生活を支える

7年の歳月をかけて用水路は完成を迎え、今では65万人を超える人々の生活を支えています。これらの功績が広く認知され中村さんは国内外で数々の賞を受賞し、アフガニスタンでは国家勲章も受章しました。

そんな時に悲劇が襲います。2019年アフガニスタンで活動中、中村さんは車に乗っていたところ武装集団に銃撃され、病院に搬送されるも、その最中に亡くなってしまいます。

中村さんの突然の悲報に多くの人が悲しみ、追悼式典ではアフガニスタンのガニ大統領自ら棺を担いで歩くなど、国をあげてその別れを惜しみました。

◎やっぱり目の前で困っている人を見捨てるわけにはいきませんよね。